甘井りんごの5行日記

老人と糸
一昨日、70代半ばくらいであろう男性が杖をついて、アトリエの前に現れた。
手芸教室中であったため、ドアの鍵はしていなかった。
その老人は、黄色の糸を1つ手に持ち、住まいと名前を名乗った。
私は、初対面だったけど、あちらは私を知っているような印象にも感じた。

初めて会う人を全面的に信用するほど、人生経験は未熟でもない。
しかし、教室中ということもあり生徒さんたちもいてくれたので話を聞くことにした。

口調の優しい人だった。

「こんな、ロックミシンの糸を使いますか?工業用なんですが...」

綺麗な黄色の糸だと思った。それにしても大きすぎる。
私の家庭用ロックミシンでは、規格が合わず、そのまま使うことは出来ない。
他のものに巻き取って使えるのだろうか...
などが頭を巡った。

しかし、わざわざ持って来てくれた想いを考えると、無げに断れない。

「まだ、他の色もいくつかあるんですけど...」

さて、どうしよう(まさかお支払いするんじゃないよねぇ?)と思いながらも
「ありがとうございます。
ロックミシンは、ここでも3台使っているので、糸はとても助かります。」と私は答えた。

その老人は、安堵したような微笑みを浮かべ、黄色の糸を1つ、私に手渡し
「あとで、残りを持って来ます。」と告げた。

「どうして、そんなに糸をお持ちなのですか?」と尋ねたら

「妻が昔、子供服を作る仕事をしていて...」

他界されたのか、もう作ることをしなくなったのか、そこまでは聞かなかったけど、おおよその話は想像がつく。
想い出のこもった糸を捨てるには忍びなく、誰か貰ってくれないかな...と思ったところ、私の存在を知ったのでしょう。

お礼にお菓子とジューズを紙袋に入れ、すぐに渡せるよう準備した。

約束通り、老人は再び(4~5時間後)糸を持ってアトリエを訪れた。

私が差し出す紙袋を「いいです。いいです。」と遠慮したけど、それでは私も気が済まないので受け取ってもらった。

恐縮しながら、その老人は横浜まで帰って行った。



使用できない糸を無駄にせず、どう効果的に使うか。これから考えます。
もし、老人でなかったら...老人であったとしても上からものを言うような人だったら...
私は断っていたかもしれないな。